今日は、甲子園で地元の東海大甲府の試合がありました。
残念ながら、8-4で負けてしまいました。
その試合の途中に、妻が自分のLINE(ライン) で送られてきた動画を見せてくれました。
『教えて髭の隊長』と『ヒゲの隊長に教えてあげてみた』の両方の動画でした。
興味がある方はご覧ください。
どちらが正しいかは私には分かりませんでした。
ただ、論語の言葉を思い出しました。
子曰く、其の位に在らざれば、其の政を謀らず。
(読み)
しのたまわく、
そのくらいにあらざれば、
そのまつりごとをはからず。
孔子先生がおっしゃいました。
「責任のある地位にいなければ、政治のことを議論してはいけない」
まづは、自分が果たすべき責任を果たしているかを自らに問いたいと思いました。
ところで、今日は終戦記念日ですが
昨日に引き続き届いたメールをご紹介します。
以前に、私も本で読んだことがありますが、戦争の悲惨さを感じました。
今一度読み返してみてなんともいえない気持ちになりました。
以下メールの内容
戦時中に輸送船が二度撃沈され漂流、九死に一生を得て、苦学の末に日本考古学界の
重鎮となった大塚初重さんの戦争体験をご紹介します。
戦争の記憶が日本から失われつつあるいま、先達たちが必死に生き抜こうとされた当時の
貴重な体験談に耳を傾けてみましょう。
■■□―――――――――――――――――――□■■
「一生忘れられない出来事」
大塚初重氏(明治大学名誉教授)
※『致知』2008年7月号
連載「不撓不屈」より
□□■―――――――――――――――――――■□□
――乗っていた船が二度も撃沈されたのですか。
(対談のお相手は小野田寛郎さんです)
ええ。あの日の出来事は忘れたことはないです。
昭和20年、私は御茶ノ水の海軍気象部で気象観測をやっていました。
3月10日に東京大空襲があって一晩に10万人が亡くなりました。
我々は11日から死体の片付けに駆り出されました。
見渡す限り、焼け野が原に黒焦げの死体の山……。
その死体を大八車に乗せながら、これはちょっと日本に勝ち目はないんじゃないかと思った。
その直後に上海への移動を命じられ、3月末頃に佐世保湾を発ちました。
途中韓国の済州島沖で錨を下ろしていた時、ドッカーンときて、その瞬間に船が燃え上がりました。
――じゃあ停泊中にやられたのですか。
はい。我々の船は門司港で36発の魚雷を積んでいました。
そこへ米潜の魚雷が当たって爆発したものだから、6,000トンくらいの船の半分が飛んでしまって、沈みながら燃えていたんです。
私は後部船倉にいましたが、垂れ下がってきたワイヤーロープに飛びつき、必死で甲板に登っていこうとしました。
そうしたら他の連中の手がいくつも私の足をつかんでくる。
もう芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の世界です。
私はね……、
生きるためにその人たちを蹴落としたんですよ……。
助かりたい、なんとか生きたいという思いで無我夢中でした。
後から考えれば人殺しをしてしまったわけです。
――……自分に余力があれば人も助けられます。
まずは自分が基本です。
震災でも何でもそうでしょう。
それは無理のない話だと思います。
海軍に入ってわずか一、二年の若造で下士官でしたが、自分が助かりたいばかりに人を
燃えている船底へ蹴落としたダメな軍人だったと、後から自分で自分を随分責めました。
私も82歳になりましたが、あの出来事は一生忘れることはできません。
しかし、その後の人生の時々にあの日の出来事が蘇ってきて、つらい時、苦しい時、
いろいろなことがありましたが、それは随分支えになりました。
犠牲になった命に報いるために、自分はやらねばと覚悟を決めて生きてきました。
過去の本日のブログ
『今日は終戦記念日(感じたこと)』 2014.8.15
■ 今日の言葉
『本物』
苦労に苦労を重ねた挙げ句、達したものこそが本物である。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
坂村真民(仏教詩人)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
おかげさまで、創業50年
(有)古屋商店
甲府市朝気1-2-66
055-237-0704
営業時間9:00~17:00
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■