人それぞれかな・・・。

古屋商店のフルフルです。

先日ある話の中で、子どもの生れ月の話が出ました。
4月1日生まれの子どもを持つお母さんが、自分の子どもの生まれた日を心配しているということでした。

実は私も4月1日生まれで、娘は3月31日という何とも奇妙なめぐり合わせです。

知らない人もいると困るので、学年の一番最後は4月1日生まれです。
私が小さい頃、親が 「この子は早生まれの一番最後で何をしても遅くて体も小さいから」 と人に語っているのを子どもながらによく聞いたものです。

私の場合は心の中で、それを言い訳にしたくないという思いが強くあり、あまり人に生年月日を言うのが好きではありませんでした。元々不器用で劣等感が強く、自信があまりない子ども時代でした。

今、自分の子どもに対しては、生年月日について何か特別なことを言ったり、早生まれだからと心配することはありません。それは私なりの経験を通して感じたいくつかの理由があります。
1.人にはどうしても変えることが出来ない運命みたいなものがあるので、それにこだわらないこと
2.もし何かそのようなことがあっても、そのことを気にすることなく 「すたすた」 と歩いていける人になって欲しいと子どもには願います。自分もそうありたいです。
3.もし子どもに願うことが一つだとするなら、どんなことがあってもそれを受け入れて生きていける人間に育って欲しい。
・・・と思っています。例えば、生まれの初めと終わり、同じ学年でその初であれ終わりであれ、それは選ぶことが出来ないからです。ほとんどのことは自分で選ぶよりは外からのことにより起こることで、それを自分がどう対応するかではないでしょうか。

もし、4月1日生まれで良かった事を上げるなら、いつも何をしても遅く体が小さかった私は、人との比較で自分のことを決めることが少なかったと思います。だから、人がどうするから自分もする、ではなく、自分がどう出来るかのことに心をはらうようになりました。長所は短所と言いますが、だから気が利かないことも多いのかもしれません。

生まれ月で悩んでいると聞いた時、ある言葉を思い出しました。 「人は不幸と思えることの中にこそ人生の深い学びがある」。子どもには色々なその子自身が持った良い所があります。せめて親だけでも劣等感を感じさせることが無ければ、そんなもんだと思って育っていくのではないかと思いました。(勝手な自分の解釈で、子どもはどう思っているのか知りませんが・・・)

そんなことを思い出しながら、家族で先月動物園で開催された親子写生大会へ行って描いた絵が昭和のイオンに展示されているのを見に行ってきました。色々な動物の絵があり、何を書こうと白い紙に自由です。みんなそれぞれその子にしか書けない絵を描いているんだななどと思いながら見てきました。
帰りにタコ焼きを買いましたが、楊枝が喉につまると危ないので車内では食べられず、家に着くまで我慢することになりました。 「お腹すいた、食べたい!」 と騒ぐ子どもたちに、食べる前にお風呂に入ってサッパリしたい私は、勝手なことを考えみんなに言いました。
私 「みんな空気も食べられるの知っている?」
娘 「知らない」
私 「知らないならいいこと教えてあげる」
私は大きく息を吸い込み 「この空気は硬くておいしいな、むしゃむしゃ」
そのあと妻が 「この空気は柔らかくてツルツルしている」 などと言っている間に子ども達も真似をして 「この空気おいしい」 などと食べ始めました。そうこうしているうちに家について 「みんな少しはお腹がいっぱいになったのでお風呂に入ろう」 と言うと 「はい~」 と元気良い声が返ってきました。
なんとのんきな家族でしょう。いつまでもこの誤魔化しが通じることやらと思いつつ、私でも親になれたので4月1日生まれでも心配することないよとそのお母さんに言ってあげたい気分でした。ちょっとした会話から少し忘れかけていた自分の子どもの頃の経験を思い出すことができました。

息子の絵

息子の絵

娘の絵

娘の絵

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